伝統文法と構造主義

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学校文法の五文型だろうが、アメリカ構造主義言語学の直接構成素分析だろうが、「太郎は学生です」とかのような「簡単な」文の構造を表すだけなら、それでまあ十分です。もちろん実際に使われている文はもっと長くて複雑なものが多いわけで、五文型あたりじゃとてものこと、正確に構造を表すことはできない文がごろごろしているだろうなんてことは、ちょっと考えてみれば誰にでも分かるだろうと思います。

ですが、どんなに長くたって、これは基本はSVで動詞の後ろは全部副詞みたいな働きなんだよれとか、この文はちょっと複雑なんだけど、SVOのSの部分が節になっているだけで、見かけほど分かりにくくはないんだよ、なんていう感じで説明して、細かいところはまあそう深く追求しなくてもいいじゃないかという態度ならば、五文型だってそう捨てたものでもありません。

実際、私たちは英語の構造としてはほとんど五文型しか知らないでも、海学入試で出題されるような大変むずかしい英文の構造をそれなりに正しく理解できるようになったわけなのでして、五文型なんか全然間違っているというのだったら、多分私たち大多数の日本人は英文をなんとか読める程度のレベルにすら到達していなかったはずなのです。

直接構成素分析についても、普通の文ならば二つずつの直接構成素に分けていくことは、大体はできるわけです。ですから、文がだんだんと細かい単位に分かれていくのだよということ、つまり文の構造には階層性があるのだょということを示すためだけだったら、それなりに役に立つことは立つのです。

五文型は単なる分類だ


しかし、「ある言語のどんな文をとっても、その構造をきちんと表すことができるようにしたい!」という、文法の研究者ならば誰でもなしとげたいと思っていることは、五文型や直接構成素分析を使ったのではやっぱり達成できないと考えるしかありません。五文型が不十分だということは、さっきもお話ししたとおりですし、皆さんもよくお分かりのことと思いますから、ここでくわしくお話しすることもないと思います。
五文型というのは、要するに英語の文型を五つに分類したものですが、英語だろうが日本語だろうが、文の構造を非常に限られた数のタイプに分類するということは、「余類」というものの本質上、絶対に不可能なことなのです。
文の数は無限と言っていいくらいなのですから、いくら細かく分類したとしても、どのタイプにも入れられないような文は必ず出てきます。そうすると分類をまたまた細かくしなければならなくなり、結局は五文型どころか千文型とか万文型を設定しても足りなくなるということになってしまうでしょう。ですから、「文型」によって構造を表すという方法は、すべての文を対象にしようとする限りは、最初から失敗するようになっているものなのです。

直接構成素分析はまともな文法じゃない


これが直接構成素分析だと、もともとは文の構造を分類することを目的としているわけではありませんから、五文型のように最初から「枠学的じゃないぞ!」というレッテルを貼る必要はありません。ですが、仮にある言語のすべての文について直接構成素分析の方法がうまく当てはまることが分かったとしても、じゃあそれで何なのだということが問題になるわけです。
つまりどういうことかと言いますと、どんな文でもまず二つの直接構成素に分かれて、それぞれがまた一一つに分かれて、そしてまた二つに分かれて……という過程を繰り返して、最後に個々の単語にたどりつくのだよという仕組みがあることが分かったとしましょう。それが分かったとして、「それじゃあそうやって分析した文の構造っていうのは何なのですか?」と聞かれてもうまく答えられないのです。
「いや、ですから、こうやって二つずつに枝分かれしていってるわけですよ」なんて言ったって、「でも、その文とは違う別の文だってやっぱり同じように枝分かれしてるんですよね。その文とこの文と、構造は違うと思うんですが、直接構成素分析だとどうやって説明するんですか」と追求されるかもしれません。たとえば、次の二つの文のことが問題になっていると思ってください。

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